2018年11月28日
訃報の連絡

2018.11.26 己高山山麓の紅葉
会社OB会から訃報連絡がくる。
私の知らない人の場合は、年齢によらず特に感ずることはない。
でも知っている年下の人の場合は、「ええー」とまずびっくりする。
亡くなられた原因などは記載されていないので、後日どなたから聞いて再びびっくりというケースが大半だ。
人によっては異常な死を迎えられるケースもある。知れば知るほど複雑な心境になる。思うのはやはり取り巻きの人のこと。
取り巻きの人の存在が大きいだろうと勝手に思う。
ネットを見たり、本を読んでいろんなことを知ってしまった状態で死と向き合ったとき、どうなのかなと考えてしまう。
もっと生きたいと思うのか、満足して死を迎えるのか、何かに後悔するのか。
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さて、話題を変える。
ご近所にも、田舎に帰ったときも、なにかの集まりがあったときも、必ずといっていいほど、体に不自由を訴えるひとがいる。
先日の田舎の同期会でも腰の曲がったひと、膝が痛いひと、半身不随のひと、久し振りの参加ゆえ周辺の変化にびっくりする。
でもよくよく考えると、外出できるわけだからまだ増しということが後でわかる。外出できないひとがさらにいるはず。
幾度となく言っているが、これらの状況を踏まえると、山に行けるということは大いに喜ばしいとつくづく感ずる。ウオーキングしかできなくなった人、療養中の人、自分は元気だが両親とか相方の面倒を見るため外出不可などで、かつての山友たちもどんどん減ってくる。
いずれ自分も同じ運命と思うがゆえに、今、山に行けることを単純に喜ぶ。